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あっという間のお別れ 

3月半ばの土曜の朝、義母が亡くなったと連絡が入りました。

コロナから回復したものの持病の状態が悪いので受け入れしてくれる一般病院を探している状況でしたが、それから状態が悪化しているともきいていました。

結果的にコロナ病棟での他界ということで義母と直接のお別れはできませんでした。

 

同じ日の朝、別の病院に入院中の義父のことで連絡もきました。

義父も施設でコロナに罹り入院したのち、レムデシビルを投与したことで回復したものの持病の状態が落ち着かないということで一般病棟に入院中でした。

義父は意識はあるもののもう話ができるかどうかという状況ということだったので

わたしと娘はまず義父の病院へいきました。

病院から容体が悪いという連絡がきている家族は面会ができるということで。

病院で夫と合流して、手袋とビニールエプロンのようなものをつけて義父の病室に。

もし、義父がまだ話しができて「ばあちゃんは?」と聞かれたらどうしよう・・・とおもっていたけれど目をどうにか開けるときもあるぐらいで手を握ると握り返してくれるけど呼吸はあらく苦しそうでした。

看護士さんがずっと走っているような感じと教えてくれました。

頑張れと言いたくないのに他にどういえばいいかわからなくて

「きついね」と声をかけ手を握ったり身体をさすったりできるだけ。

義母の病院にもいく必要もあるし長居もできず「またくるね」といって出ました。

それから義母の病院で死亡診断書を受け取ってきた義姉と実家で合流。

葬儀屋さんが遺体を引き取るタイミングでならと聞き皆で病院にいったけど、お棺の中の姿を小窓からみれただけでした。

義母が好きな華やかな洋服を一緒にお棺にいれてもらうつもりで義姉が持参していましたが、しっかり袋にいれられていてお棺のふたを開けることもできないといわれあきらめました。病院のパジャマ姿だったとおもいます。

義母はその日の夕方、時間外のコロナ枠という感じの時間帯に火葬されました。

広い火葬場に私たち家族だけ。

骨をみたら頭蓋骨を開けられた跡、焼け残ったペースメーカー、太もものボルト・・・

「ああ、本当にばあばあなんだね。」と。

大変だったね、頑張ったね、もうホッとしてるだろうねっていいながら骨を骨壺にいれていきました。

「家に帰ろう。」って骨壺を抱えて実家に連れて帰りました。

次の日、家族葬をしてみんなでお別れしました。

東京にいる息子も帰福してきました。

葬儀を終えて「じいじいは連絡がないからもちこたえてるんだね。ばあばあは最後寂しかったかもしれないけれどいまはホッとしてるだろうね。」と義姉と夫と話しました。

 

翌早朝、義父の病院から連絡がきた。

「もう危ない」って。

今度は帰福している息子も連れて、義姉と姪も間に合ってみんなで病室で看取ることができました。

みんなで声をかけて手を握って身体をさすりながらお礼をいって「ばあばあが待ってるよ。」って。

わたしも家族も人が亡くなるところに立ち会うのは初めてでした。

看取りで家族が病室に入ると「身体をさすってあげてください、聞こえていますから近くで声をかけてあげてください。」といってくれた看護士さん、それができるようにその前に義父の髭を剃って歯磨きをしてくれ、身体を綺麗にしてくれていました。

本当に感謝です。

義父の死を確認してくれた医師も丁寧で家族へのおもいやりもあるかたでした。

95歳の義父は91歳の妻の葬式の次の日、追いかけるかのようになくなりました。

土曜日にいったばかりの火葬場にまた行くのかとおもったら、普通は亡くなって24時間経たないと火葬できないということで次の日の火曜日に火葬することになりました。

亡骸となった父は次の日もまだ柔らかく穏やかな様子で、葬儀場でまた親族が集まったのでひ孫までいれたみんなに顔をなでられていました。

 

お棺の中には、お花と義父の好きだったものをいれ、「ばあばあに渡してね。」といいながら義母の服と好きだった和菓子などいれることができました。

「このためにじいじいはこのタイミングで亡くなったのだろうね、すごいね、かっこいいね」とみんなで話しています。

 

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火葬場にいくと他にも同じように火葬を待つ家族がいてまるで結婚式場みたい。

先日の義母の火葬に立ち会ったわたしたちは、義母のときと比べてやっぱりコロナでなくなるといろいろと違うものなんだと知りました。

義父の骨は大きくてしっかりしていて、骨以外はいつもつけていた時計だけが焼け残っているだけでした。

骨を拾うときの説明も担当された方によって違っていて、そういうのがわかるのもなかなかない経験といえるとおもいます。

 

「じいじい、家に帰ろうね。ばあばあが待ってるよ。」といって骨壷を抱えて帰りました。

実家の祭壇には義母と義父の骨壺がふたつ並んでいます。

 

いろいろ考えて義父のお葬式は土曜日にしました。

東京から戻っていた息子は事情を理解してもらいリモートで仕事をしつつ残っていました。

ふたりとも亡くなったので入所していた介護施設もひきあげ、そこにあったものはゴミ焼却所に直接持ち込み処分して。

クラスターとなった施設はもう落ち着いているとのことでスタッフにはお礼を伝えて退所完了。

 

義父のお葬式には義母の骨も持っていって、祭壇に飾ってもらいました。

そして義母の初七日も一緒にして貰いました。

葬儀屋さんもお寺さんもこんな経験はなかなかないだろうなぁ。

 

義母は亡くなる前日の午前中まで看護士さんと話しをしていたらしい。「いつも労ってくれて優しいかたでした。」と聞きました。どこでもまわりのみんなに感謝して優しく接する可愛いおばあちゃんでした。わたしもそんなおばあちゃんになりたいです。

大正、昭和、平成、令和と生きた義父も最後まで妻が好きなかっこいいひとでした。

ふたりとも大往生といえるとおもいます。

「お疲れさま、ありがとう。」